間の極意
我が師の一人に、深見仙三郎という伝説の浅草芸人がいます。
口和悪いがとても面倒見のいい人でした。
ある日、鳴かず飛ばずの後輩芸人が、師匠に頼みごとをします。
「オレたちの漫才は全くお客さんにうけません」
「師匠!師匠が先日やっていたネタものすごくうけてましたね」
「お願いです。師匠のあの時のネタ、オレたちにくれませんか!」
芸人にとっては無茶なお願いなことは当人にとっても重々承知なこと
でも深見は快く快諾します。
後輩芸人は喜んで、次の日の舞台でそのネタを披露します。
でも、お客さんからは笑いの一つも出ませんでした。
古典落語もそうですよね。
一字一句まったく同じ古典落語を、新人が話した場合と名人が話した場合
そこにもお客さんから出てくる笑いは大きく違ってきます。
なぜでしょう?
それは『間』の取り方です。
言葉と言葉のあいだ、どれだけの『間』(時間)をとるかということ
お笑い芸人のネタや古典落語のネタのなかにある『間』があれば
実は、それを演じたり語る人、それぞれにも独特な『間』があるんです。
深見には深見に合った『間』があれば、後輩芸人には後輩芸にあった『間』もあります。
さらに声質や話し方の細かい癖、その人の容姿や微細な表情、そこにもあった『間』があります。
だから深見の間の取り方を後輩芸人が完璧に再現したとしても、それは笑いにはならないことだってあるのです。
これに関しては、真似るのではありません
『真似ぶ』であり『学ぶ』のです。
そして自分に合った、自分だけの『間』を見つけましょう。
何かがうまくいかない場合、努力や技量だけではない可能性があります。
それに対する『間』は合っていますか?
立ち位置という意味もあれば、タイミングという意味もありますからね。
格闘技や剣道でいう『間合い』というものをもう一度確認してみましょうね。