2021年08月06日(金)

対価と等価と投下

本日は日本に原爆が投下された日ですね。

皆様は、あの戦争をどこまで知っているのでしょうね。

 

『第二次世界大戦』ではありません!!

大東亜戦争のことです。

 

なぜ大東亜戦争と言わないのでしょう?

なぜ各テレビ局は『大東亜戦争』という言葉を放送禁止用語に指定したのでしょう?

なぜ大東亜戦争は日本の侵略戦争と言われるのでしょう?

なぜパラオでは日本語を話せたり日本の歌を歌える人たちがいるのでしょう?

なぜパラオの国旗は日本国旗に似ているのでしょう?

 

最も激しい戦いが行われた戦場のひとつに、ペリリュー島の戦いがあります。現在のパラオです。

70日以上にわたる激戦だったのにも関わらず、島民1万人に一人の死者も出ていないのはなぜでしょう?

 

今日は、今日だからこそお話ししましょう。

少し長いですが是非読んでいただき、今日だからこそ少しだけ考えてほしいのです。

 

 

当時、アジアのほとんどは白人により植民地化されていました。

ペリリュー島も同様ドイツの植民地であり、男は強制労働に従事し死ぬまで働かされ、女は悉く犯されました。

そこに現れたのが大日本帝国海軍でした。

 

島民は思いました。

支配する人間がドイツ人から日本人に代わるだけだ・・・

 

しかし訪れた日本の兵隊は、島に道を作り、井戸を掘り、病院を作り、学校を作りました。

初めは警戒していた島民たちも、次第に日本兵に心を開くようになり

一緒に酒を飲み食事をし歌を歌いました。

日本兵は植民地になる前よりも、さらに良い暮らしを島民に与えたのです。

 

そして、その後『ペリリュー島の戦い』と名付けられる戦いが始まります。

日本の守備隊1万500人に対し、アメリカは兵士4万8000人、戦車の数も、航空機の数も日本の数10倍

それを知った島民1万人は、日本兵と一緒に戦い島を守りたいと一致団結

当時の守備隊長であった、中川州男に申し出ます。

中川は温厚で島民にも優しく接していた男でしたが、島民に対して顔を激昂させてこう言います。

 

「我々崇高なる帝国軍人と、お前ら土人風情が一緒に戦うなどいい気になるな!!」

 

島民は裏切られた気分で帰宅、次の日には島外退去を命じれれます。

当然ながら、日本兵の見送りもないまま、船に乗り島を離れた瞬間

島の奥から駆け出してきた多くの日本兵は、船に向かい涙を流し帽子を振っていました。

その先頭にいたのが、中川州男その人でした。

 

そして、ペリリュー島の戦いが始まります。

アメリカは2,3日もあれば攻略可能と考えていましたが

実際は中川の卓越された戦略指揮のもと71日間におよび戦闘を継続

最後は中川州男自決、残りの兵士は万歳突撃を行いました。

 

そして戦闘終了後、帰ってきた島民たちは岩だらけになった島と多くの日本兵の死体を見ることになります。

彼らは、一人ずつ綺麗に日本兵を埋葬します。

そして、独立することになるパラオの島民たちが、考えた国旗は

日本への感謝と敬意を込めた、日の丸に似た国旗でした。

ただ、中心に日の丸を配置するのはダメだ、日の中心は日本に譲るべく

自分たちの国旗は中心よりずらした位置に日の丸を置く形にしました。

 

今でも、日本がいなければ今の私たちはいないと言われ

パラオの歴史の教科書には何十ページにわたり、当時の様子が描かれています。

 

パラオで日本の歌が歌われるのは、決して侵略された名残ではなく

日本に対する感謝の気持ちから歌われるものなのです。

 

日本はほかのアジアの国や島でも戦いを行いましたが

ペリリュー同様、その国の人たちとではなく、植民地として蹂躙していた白人と戦ったのです。

 

もっと色々話したいし、決定的なことも言いたいですが今日はここまでにしておきましょう。

あまり偏ることを言うつもりもありませんからね。

この先は、皆さんが考えてください。

興味がある人は、書籍を調べてください。

ここでお話ししたことは、ウィキペディアでも取り扱えないことですからね。

 

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