【愛の深淵】阿部定と石田吉蔵に学ぶ。「あなたと一つになりたい」という願いが持つ、美しさと恐ろしさ
こんにちは!愛の伝道師 聖司です。
前回のブログで、日本語の「彼氏」「彼女」という言葉には「彼方(あちらの人)」という意味があり、「どんなに愛していても、パートナーは自分とは違う独立した存在(彼方)である」と認めることが、愛を長続きさせる秘訣だとお話ししました。
では、もし……その二人の間にある「境界線(隔たり)」を、どうしても受け入れられなくなってしまったら、どうなるのでしょうか?
今回は、昭和の日本を揺るがし、今なお文学者や思想家たちを魅了してやまない実在のカップル、阿部定(あべ・さだ)と石田吉蔵(いしだ・きちぞう)の物語から、愛が持つ「美しさ」と「恐ろしさ」の正体についてお話ししたいと思います。
■ 境界線を壊した先にあった「狂気」と「純粋」
昭和11年に起きたこの事件は、世間からは「猟奇的な事件」としてワイドショー的に消費されました。 しかし、彼女が起こした行動の根底にあったのは、極めてシンプルで、けれどあまりにも巨大な感情でした。
「この人を、誰にも渡したくない」 「他の世界(社会や家庭)へ戻ってしまうくらいなら、永遠に私のものにしたい」
人間は誰しも、好きな人に対して「一つになりたい」「相手のすべてを自分のものにしたい」という所有欲や独占欲を抱くことがあります。
しかし私たちは、理性的にお互いが「彼方(別々の人間)」であることを理解しているからこそ、その感情にブレーキをかけ、現実の日常を生きています。
定という女性は、そのブレーキを焼き切ってしまうほど、吉蔵という男性を愛してしまいました。 相手の命を奪い、その肉体の一部を切り取って持ち歩く——それは社会の規範から見れば決定的な一線を越えた「狂気」です。
ですが、彼女の主観においては、二人の間にある境界線を完全に破壊し、「私とあなたが永遠に一つになる」ための唯一の手段だったのです。
■ なぜ私たちは、この物語に「美しさ」を感じてしまうのか
この事件の後、逮捕された阿部定の写真が残されています。 警察官たちに取り囲まれながら、彼女の表情にはどこか晴れやかで、穏やかな笑みが浮かんでいました。
人は、この物語に強い「恐怖」を感じると同時に、どこかで言葉にできない「美しさ」や「切なさ」を感じてしまいます。なぜでしょうか?
それは、世間の目や法律、倫理、生きるための打算すらすべて投げ打ち、「ただ一人の人間を、命を懸けて愛し抜いた」という、純度100%の情熱がそこにあるからです。
彼女たちの関係は、定の一方的な暴走ではありませんでした。吉蔵もまた、彼女との濃密な世界に没入し、自らの死の予感すらも受け入れていた「共犯者」だったと言われています。
二人は、世間の喧騒から離れた二人だけの密室で、生のエネルギー(愛)と死の恐怖を融合させてしまったのです。
■ 占い師からあなたへ:自分の「影」を愛おしむということ
定が晩年まで、吉蔵の命日にひっそりと花を手向け続けていたと言われています。 事件の熱狂が去った後、彼女の中に残ったのは、ただ「愛した人を想い続ける静かな祈り」でした。
彼女たちの愛は、私たちが軽々しく真似できるものでもなければ、受け止められるものでもありません。 あまりにも強すぎる愛は、自分も相手も焼き尽くしてしまう「毒」にもなり得るからです。
けれど、あなたの心の中にも「相手を独占したい」「自分だけのものにしたい」という小さな影が芽生えたとき、どうかそれを「醜いもの」として責めないでください。
それは、人間が誰かを深く愛したときに生まれる、ごく自然な光と影の「影」の部分だからです。
「私の中にも、あの深淵のような愛の芽があるんだな」と認めてあげること。 そして、「だからこそ、この手で相手を慈しみ、心地よい距離感を大切にしよう」と現実の愛へ還ってくること。
愛の持つ「恐ろしさ」を知る人ほど、日常の穏やかな「ありがとう」の尊さに気づけるはずです。 あなたの愛が、相手を壊す炎ではなく、温かく照らす光でありますように。